機能不全家庭・・・・・・・・アダルトチルドレン(AC)のゆりかごPartⅣ

一般的には、不登校とアダルトチルドレン(AC)がどこかで繋がっているという事は理解されているように思います。ことに、アダルトチルドレン(AC)の親に育てられた子供は、不登校になりやすいという事は、これまで指摘されて来ました。「優しい虐待」と言う言葉も、この延長線上に出てきた言葉です。

今回は、そういう上っ面を見るのではなく、機能不全家庭で生き延びるために子ども達が演じてきた「役回り」から、不登校を考えてみたいと思います。

不登校との結びつき

もう一回、子どもが生き延びるために演じる「役回り」を見ておきましょう。

・「ヒーロー(ヒロイン)」は良き「大人」を演じる

・「リトルナース」は善良な管理者、良き「親」演じる

・「ピエロ」は愉快な「道化師」を演じる

・「ロストワン」は永遠の「迷子」を演じる

・「プリンセス プリンセス」は現実逃避するために命なき「人形」を演じる

・「スケープゴート」は自らを犠牲にして「問題児」を演じる

順番が逆になりますが、すでに性格タイプとの関連が分かっている三つの「役回り」から考えていきましょう。

スケープゴート

「スケープゴート」は自らを犠牲にして「問題児」を演じているのでした。「自分らしさにこだわり抜く」性格タイプが、この「役回り」を演じて生き延びようとするとき、その心にはいつも巨大な怒りが煮えたぎっているのでした。その怒りが自分自身に向かうとリストカットや喫煙のような自傷行為になります。耐え難くなると、アルコールや覚せい剤などの薬物に依存する傾向もありました。これらは、一般的には、「非行」という事になりますが、「非行」と言うのは多くの場合、長期の欠席や不登校と結びついています。いえ、むしろ「非行」は、その外見的なエネルギーにも関わらず、「不登校」の一種だと考えた方が適切だと私は考えています。こうして、親は「手に負えない子だから」と不登校を容認しがちです。

プリンセス プリンセス

「プリンセス プリンセス」は現実逃避するために命なき「人形」を演じているのでした。「平和であることを願い続ける性格タイプ」は意志なき人形を演じることで、親から自分の意思を無視され、人形のように扱われることをむしろ欲するのでした。しかし、学校で「プリンセス プリンセス」はどのようにすれば現実逃避出来るでしょうか。学校はどんなに校則が厳しいとしても、本質的には生徒同志、あるいは先生との間で、自らの意思を選択していかなければならない意思疎通の場です。言葉を代えれば学校は「プリンセス プリンセス」にとって不安を引き起こす苦痛の場なのです。家で「命なき人形」を演じて虐待に耐える方が平和で居られるという親への依存心理が働くとどうなるでしょうか。家庭の方も、虐待の対象である「プリンセス プリンセス」が不登校であることは、むしろ都合のよいことであり得るのです。こうして不登校は放置されることになります。

ロストワン

「ロストワン」は、居なくなったように自らの存在感を希薄にして機能不全家庭のバランスを保とうとする子でした。もともとの性格タイプは「思考回路型」で、感情に左右されず人との間に「距離」を保ち、もともと孤独に耐える力がありました。いわば「人間嫌い」で、良くも悪くも人間関係が錯綜する学校と言う場は好きではないのです。この「ロストワン」が自分の「役回り」の中で開き直ったらどうなるでしょうか。その姿こそ「不登校」です。「ロストワン」が見捨てられた存在として自分自身をあきらめ、人(他者)とのつながりを拒絶しようと決意した姿が「不登校」です。家の中でさえ、自室から出ようとはしなくなります。その姿こそ「引きこもり」です。もともと、「永遠の迷子」を演ずることで生き残りを図っていたのですから、「居なくなること」と「不登校」や「引きこもり」と言うのは、ほとんど紙一重と言っても良いでしょう。こうして、ロストワンの固い決意の前に、親は為す術を失ってしまうのです。

※何十万人と言われる不登校と引きこもりの中で、「大山脈」を形成しているのは「ロストワン」だという事情は、これで明らかになるのではないでしょうか。

ピエロ、リトルナース、ヒーロー(ヒロイン)

さて、この三つの「役回り」に共通するのは、どのような「性格」だと思いますか?これらの「役回り」はある意味、「サービス精神」が旺盛でないと務まらない「役回り」だとは思いませんか。実際、こういう「役回り」を演じてきた「不登校」の少年少女の話を聞いていると、私は、しばしば彼らの「熱血ぶり」に涙が出ます。なぜ、それほどまでに一生懸命なの?なぜ、それほどまでに健気(ケナゲ)なの?なぜ、それほどまでに立派なの?聴いているだけで実際、涙が出るような奮闘ぶりです。

でも、彼らがその「役回り」に疲れ切ってしまったらどうでしょうか?ばったりと倒れてしまったらどうなるでしょうか。無理もありません。その姿こそ「不登校」です。実際、彼らがくたびれ果てて自分の「役回り」を放棄してしまうことによって、その家庭の機能不全ぶりは顕在化するのです。

不登校は親の気付きをもたらす

夫婦げんかに忙しい両親は、こうして初めて子どもの異常に気が付くのです。あるいは、表面的にはさざ波さえないような静かな夫婦で、軋轢や衝突の影すらないように見えても、実際に、両親の関係は氷のような冷たさで、愛やぬくもりは欠片(カケラ)さえないような夫婦であることを、子どもが見抜いていたことが、「不登校」によって明らかになるという事も少なくありません。

こうして考えてくると「不登校」は、単純に親の在り方を問うているのみならず、夫婦の在り方や家族とは何なのかさえ問いかけていることが分かります。この意味で、「不登校」と言う一般には理解が難しい事態は、両親それぞれの不幸せや夫婦の不幸に「光」を当てていることを肝に銘ずべきでしょう。

※私は、15年前(湾岸戦争の時でした)にアメリカに3年間駐在する機会があり、興味があっていろいろ調べてみたのですが、アメリカの「不登校」は主に「スケープゴート」型ではないかと当時感じました。つまり、アメリカでは長期にわたる不登校は「非行」との関連で考えられているようでした。そうでない場合には、「病気」または「障害」と捉えられているように思います。また、アメリカでは「ロストワン」型の不登校は極めて限られているように思われました。これは、育児と教育の中で、子どもに対して「個としての存在」、あるいは「個の意識」が強く要求されていることと無縁ではないと思っています。日本の育児と教育には明らかに弱点があるように思いますが、この話は別の機会に譲ります。

 

さて、今回の投稿では、不登校とアダルトチルドレン(AC)がいかに強く結びついているか、いえ、それ以上にコインの裏表として分かちがたい問題であると同時に、親の世代から子の世代へ避けがたく影響を及ぼすものであることがお分かりいただけたのではないでしょうか。

 

次回は、PartⅤとして、四つ以上の要因を持つ「機能不全家庭」の中を、アダルトチルドレン(AC)になることなく乗り越えて、成人後、愛情あふれる豊かな家庭を築いた子ども達についての報告です。何が彼らを幸せに導いたのでしょうか?そして、これをもとに幸福になれなかったACの子ども達について考えてみたいと思います。

 

お楽しみに!

 

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