ACシリーズの第4回、「子育てがしんどかったPママと次男のT君」

ACシリーズも今回と次回で一応の終わりを迎えますが、この問題をこうして語って来て思われるのは、現代日本ではACや毒親が自分自身からも子どもからも隠されて存在しているのではないかという疑問です。昔のように、アルチューの父親が母親や子どもに激しい暴力を振るい、子どもが親を毒親だと認識し、そして、自分の心の底にある恐れや苦痛がその毒親からもたらされた後遺症としてのACなのだとはっきり自覚できる人の方が少ないのだと思われます。

前回ご紹介したA子さんのように、親の無視と無関心をあいまいに自分のせいにして、なかなか問題の本質に辿り着けないまま虚無感に苦しむという人が多いのではないでしょうか。今回は、自分の親がまさか毒親だとは思ってもみなかった、そして自分も子どもに対して毒親であることを自覚できなかったPママの例を扱ってみました。

=問題児だったT君=

T君は小学校入学当初から問題児でした。友達が走ってくると足を引っ掛けて転ばせる、教室を歩いていた女の子の前に机を押し出す、後ろから突き飛ばす、クリスマス会でカメラをケーキに突っ込む、等々の良く言えば悪ふざけ、悪く言えば乱暴を働いて「問題児」の悪名を背負い続けてきました。じっさい被害にあった子は前歯を折ったり、脚を捻挫したり、腕に打撲を負ったりと、学校の保健室での治療では済まずに病院に運ばれることも少なからずありました。お母さんのPママはそのたびに相手方のご家庭を訪ねて謝罪するという事が、毎年4回も5回も続きました。

=おねしょを発端に赤ちゃん返り?=

そのT君が5年の7月に不登校になりました。きっかけは1泊の校外学習で「おねしょ」をしたことでした。それからトイレをいつも気にしだし、「教室に入るとトイレに行けなくなる」と学校そのものに行かなくなりました。楽しそうに通っていた塾でも、「おしっこをずっと我慢していたのが辛かった」と言いだし、すぐに行かなくなりました。家でも、「おねしょ」をしてお父さんから叱られました。それがこたえたのか、お母さんに紙おむつを買って来てと頼み、毎晩、紙おむつに履き替えて寝るようになりました。家で過ごすあいだパートに行っているお母さんに「何時に帰ってくるの」「早く帰ってきて」とひっきりなしにメールや電話をするようになりました。以前は出来ていたこともすべてお母さんの手を借りないと出来ないようになり、「赤ちゃん返り」のような状態となりました。

=カウンセリングが必要なのはお母さん?=

困ったPママは、民間のカウンセリング機関を複数回った末、「どうしたらいいのか分かりません」という事で当会「輝け元気!」を訪れたのです。私は、T君と一回話をし、もう一度、今度はご家族(T君のお兄さんを含めて4人)で来ていただいて、主にT君のお父さんと話をしました。その上で、お母さんのPママに「半年ほど週一回のペースで通ってください」とお願いしました。Pママは、不審げに私を見て、「なぜ私がカウンセリングを受けるのですか?」と言わんばかりの様子でしたが、しぶしぶ同意してくれました。

Pママの涙=

Pママのカウンセリングを始めたのはもう年も押し迫っていた頃ですが、T君は翌年の春、6年生の新学年から保健室登校を始め、得意の体育の時間にクラスに戻れるようになったのを皮切りに、次第に教室で授業を受けられるようになって、とうとう運動会では「得点係」の代表として発表をすることが出来ました。「台に上った時には脚がガクガクしたよ。でも、ちゃんと発表できて嬉しかった」と言ったT君に、Pママは涙ながら「よくできたね。立派だったよ。凄かった」と褒めることが出来たそうです。

=なぜ?と言う問いかけがやはり必要です=

さて、ありふれた話でしょうか?よかった、よかったと感激する前に、「なぜ?と言う問いかけがやはり必要です」。まずT君はなぜ、不登校になったのでしょう?「おねしょ」をして恥をかいてしまったから?一部そうなのですが、ではなぜ彼は「おねしょ」をしてしまったのでしょうか?元気すぎる乱暴者だった彼はなぜ涸れるように元気を失っていったのでしょうか?その前に、彼はなぜ「問題児」だったのでしょうか?

そして、「赤ちゃん返り」まで起こしたT君がなぜ突然、学校に(保健室とは言え)行き始めたのでしょうか?母親のPママにいったい何が起きたのでしょうか?

=幸せだった?Pママの子供時代=

私がPママとおこなったカウンセリングは「生い立ちから遡って自分の性格を考える」といういつものカウンセリングでした。特別なことは少しもしていません。Pママはおとなしい静かな子でした。お父さんお母さんはいつも非常に忙しく旅館の経営に忙殺される日常でした。Pママは毎日学校から帰るとランドセルを玄関先に放り出して祖父母の家に行きました。近所の子たちと暗くなるまで遊び、夕ご飯も祖父母の家で頂きました。兄と姉も家には寄らずに学校から直接、祖父母の家に来て夕飯を食べました。勉強も、片付いた食卓で兄か姉に教えてもらったそうです。いつも気が付くと朝になっていて、そこが祖父母の家ではなく自分の家であることがとても不思議に感じられたそうです。すでにお父さんは仕事先である旅館に出かけ(あるいは家には帰らなかったのか?)、お母さんはあわただしく朝食の用意をして、それが済むとすぐに洗い物をし、汚れた衣服を洗濯して室内干しにすると、子ども達3人を車に乗せて学校に送り、その足で自分も旅館に駆けつける毎日でした。土曜も日曜もなかったそうです。こういう子ども時代を思い出して、Pママは「幸せな毎日だった」と言うのです。

=行けなかったバレー教室=

毎回毎回、Pママの幼少期から学生時代までの生い立ちを語って頂くカウンセリングが続きました。ある時、習い事の話になった時に「バレーを習いたかったけど私にはそれが出来なかった」と言う話になりました。Pママの四つ上のお姉さんはバレーを習っていたそうです。小学校を卒業し数駅先の中学校に進むときにバレー教室を止めることになり、Pママは何となく姉の次に今度は自分がバレー教室に通うものだとばかり思っていたそうです。姉の最後の発表会を母親と見に行ったときに、Pママは姉のバレーシューズや衣装をもらってワクワクしたそうです。ところが、バレー教室に自分が通う事にはならず、春も過ぎて行きました。「私もバレー教室にいきたい」という事をPママはとうとう誰にも言えないままでした。このことを思い出した時にPママは涙を流しましたが、「こういう悲しいことはあったけれど、貧しい中、大学まで行かせてくれた両親には感謝の気持ちしかない」と繰り返し言っていました。

Pママの回、前半はここで終了します。後半をお楽しみに!

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