エッセイ「曙光(ショコウ)」母を失った娘の思い 最終回「宇宙」「与えられるもの」

=宇宙=

棺に蓋がされる瞬間を私は忘れることはない。今もあの時そうなったように、喉の奥がぐっと圧迫される。しかし、骨になった母と向き合った時、冷静だった自分を思い出す。この時も私の意識は凍り付いたままで、時間も止まったままだった。しかし、物理的、形式的な事から解放される、もう間もなく私は母と私を包むあの宇宙に帰ることが出来ると感じたのだった。人が死んだときに目に見えるものを必要としているのは他人なのだと思う。私はあの宇宙で母を感じることが出来ると思っていた。そして実際に感じたのだ。五感で感じたというのではない。あの宇宙には物質は無く、時間も空間もなかったから、私が感じたのは母の精神に違いない。母も、私の精神を感じていたに違いない。

 

=与えられるもの=

母が亡くなってからの一年と数カ月、母と私を包む宇宙に居て、思いがけず記憶が曖昧になった。今、この頃のことを思い出そうとすると、まるで幼少期を思い出すように記憶が朧げになる。母の死に意味があるのかということを問い続けたこと、これだけは確かだ。母が亡くなる数日前、私は母に「生まれ変わってもお母さんの子どもに生まれたい」と伝えた。母が苦しい息の下、「ありがとう」と言ってくれたことを思い出す。あの今際の際の大粒の涙は、母が自分の命を惜しんで流したものではない。母は私のことを思って泣いたのだ。だとすれば、母が与えてくれたものがなぜ罰であり得ようか。

 

最近、ようやく凍り付いた意識が時間とともに母と私を包むあの宇宙に溶け出していくように感じることがある。そこは静かで温かく優しさに満ちている。なぜ私は罰せられるという受け身で母の死を受け止めたのだろう。あの頃、生には意味があるが死には意味がないと思っていた。ところが、母の存在は生にも意味があり死にも意味があったではないか。それは母が自分のために生きたのではなかったからだった。

いつの日か私も存在の意味に向き合う時が来る。命が与えられて生きるものであるように、命が尽きる時、それは与えられるものではあるまいか。時空を超えて現実を貫くこの意識もまた同じなのではないか。与えられるから、人は孤独な存在ではなくなるのではないだろうか。

「曙光」 完

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