エッセイ「曙光」母を失った娘の思い 第4回 アイデンティティ

=アイデンティティ=

自分を見つめる自分を漠然と意識した自分は、ロイが亡くなってからとても不安定だったように思う。学校の授業風景もどことなくいつもとは違うような感じがした。それは今思い起こせば、それ以前よりもほんの少し透明で無機質な匂いがするようだった。それはちょうど、それ以前の世界がもうちょっと色が濃くて生きたものの臭いがしたように感じていたから、世界が変わったことにすぐ気が付いた、という感じだった。新しい世界はどことなくよそよそしくて居心地が悪かった。

しかし、アメリカの教室は、おぼつかない足取りの自意識を伸ばし鍛える環境としては申し分のないところだったように思う。今思えば私のクラスメイト達はとっくにその意識に慣れて羽ばたき始めていたのかもしれない。なぜなら、アメリカの教室では、人と違う事に価値があることをすでにみんなが知っている事に改めて気が付かされたからである。人と同じであることは価値がないと見做される世界だったとはっきり言っていい。先生は生徒に意見を求める時、「あなたはこれまでの人とは違う意見があるでしょう」というのが枕詞だった。さらにこの頃を思い返せば、先生は私の中の人とは違うものを評価して、人と同じものは決して評価しなかったことに思い至る。他と意見が違う事は当たり前で、その違いを出発点にして議論し、自分の考えを深めていく事こそが求められた。それは、今さらながら考えてみると、常に自分というアイデンティティを意識しなければならないということを前提にした要求だった。

 

=同調圧力(Peer Pressure)=

ロイが亡くなった次の年に私は日本に帰国して、小学四年に編入した。

日本の教室では、いい意味でも悪い意味でも目立つと陰口を叩かれ、トイレは何人かで連れ立っていくところと知った。学校を休んだ子の悪口でグループが盛り上がる。こうした実態に驚いた私は決して学校を休んではならないと自分に誓った。休めば悪口を言われるのだ。それだけはどうしても嫌だった。

驚いたことに、日本では人と同じであることに価値があった。同じように感じ同じように考えることが要求された。アメリカとは逆なのだと知った時、暗澹たる気持ちに襲われたことを鮮明に思い出す。その気持ちを言葉にすることはとてもできない相談だった。日本では基本的な単位が個人ではなく集団だということを言葉に出来なかった。

教室では、議論する前に模範解答が用意されており、それに誰もが賛成であるべきだということが前提であるかのようだった。教室を離れても、自己主張できる少数の子の意見が何の議論もなく同意され了解され、面白おかしく賛成されるのだった。そこには明らかにタブーが存在していた。そのタブーを無視して違う意見を表明すると、それは議論ではなく沈黙を呼んだ。輪を乱す者として、その沈黙の陰で「問題児」「空気が読めない」という批判が為された。つまり、暗黙のルールを破った者への報いが沈黙という制裁だった訳だ。人と違うことはいじめの理由になるのだ。「みんなで仲良くしよう」と掲げられたスローガンはいつも不気味に私を笑っていた。違う感じ方考え方を持っている筈なのに、それを決して表明しない友人たちから感じたのは強い同調圧力(peer pressure)だった。

同調圧力。アメリカでは頻繁にこの言葉が使われてきた。だが、それはあくまでも同調圧力に屈してはならないという文脈で使われていた。同調圧力に屈して、みんながやっているから自分もやるというのは、アメリカでは非難され否定されることだった。みんながドラッグをやっていれば自分もやるのか。みんなが盗みを働いていれば自分も盗むのか。同調圧力はどのような状況であれ、悪として扱われた。今にして振り返れば、こうして日本とアメリカの価値が真逆であることが分かる。だが、当時の私にとって、それを言葉で自分自身に説明することは思いもよらない事だった。

(続く)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

*