子育てがしんどかったPママと次男T君

=問題児だったT君=

T君は小学校入学当初から問題児でした。友達が走ってくると足を引っ掛けて転ばせる、教室を歩いていた女の子の前に机を押し出す、後ろから突き飛ばす、クリスマス会でカメラをケーキに突っ込む、等々の良く言えば悪ふざけ、悪く言えば乱暴を働いて「問題児」の悪名を背負い続けてきました。じっさい被害にあった子は前歯を折ったり、脚を捻挫したり、腕に打撲を負ったりと、学校の保健室での治療では済まずに病院に運ばれることも少なからずありました。お母さんのPママはそのたびに相手方のご家庭を訪ねて謝罪するという事が、毎年4回も5回も続きました。

=おねしょを発端に赤ちゃん返り?=

そのT君が5年の7月に不登校になりました。きっかけは1泊の校外学習で「おねしょ」をしたことでした。それからトイレをいつも気にしだし、「教室に入るとトイレに行けなくなる」と学校そのものに行かなくなりました。楽しそうに通っていた塾でも、「おしっこをずっと我慢していたのが辛かった」と言いだし、すぐに行かなくなりました。家でも、「おねしょ」をしてお父さんから叱られました。それがこたえたのか、お母さんに紙おむつを買って来てと頼み、毎晩、紙おむつに履き替えて寝るようになりました。家で過ごすあいだパートに行っているお母さんに「何時に帰ってくるの」「早く帰ってきて」とひっきりなしにメールや電話をするようになりました。以前は出来ていたこともすべてお母さんの手を借りないと出来ないようになり、「赤ちゃん返り」のような状態となりました。

=カウンセリングが必要なのはお母さん?=

困ったPママは、民間のカウンセリング機関を複数回った末、「どうしたらいいのか分かりません」という事で当会「輝け元気!」を訪れたのです。私は、T君と一回話をし、もう一度、今度はご家族(T君のお兄さんを含めて4人)で来ていただいて、主にT君のお父さんと話をしました。その上で、お母さんのPママに「半年ほど週一回のペースで通ってください」とお願いしました。Pママは、かすかにに不審げに私を見て、「なぜ私がカウンセリングを受けるのですか?」と言わんばかりの様子でしたが、しぶしぶ同意してくれました。

Pママの涙=

Pママのカウンセリングを始めたのはもう年も押し迫っていた頃ですが、T君は翌年の春、6年生の新学年から保健室登校を始め、得意の体育の時間にクラスに戻れるようになったのを皮切りに、次第に教室で授業を受けられるようになって、とうとう運動会では「得点係」の代表として発表をすることが出来ました。「台に上った時には脚がガクガクしたよ。でも、ちゃんと発表できて嬉しかった」と言ったT君に、Pママは涙ながら「よくできたね。立派だったよ。凄かった」と褒めることが出来たそうです。

=なぜ?と言う問いかけがやはり必要です=

さて、ありふれた話でしょうか?よかった、よかったと感激する前に、「なぜ?と言う問いかけがやはり必要です」。まずT君はなぜ、不登校になったのでしょう?「おねしょ」をして恥をかいてしまったから?一部そうなのですが、ではなぜ彼は「おねしょ」をしてしまったのでしょうか?元気すぎる乱暴者だった彼はなぜ涸れるように元気を失っていったのでしょうか?その前に、彼はなぜ「問題児」だったのでしょうか?

そして、「赤ちゃん返り」まで起こしたT君がなぜ突然、学校に(保健室とは言え)行き始めたのでしょうか?母親のPママにいったい何が起きたのでしょうか?

=幸せだった?Pママの子供時代=

私がPママとおこなったカウンセリングは「生い立ちから遡って自分の性格を考える」といういつものカウンセリングでした。特別なことは少しもしていません。Pママはおとなしい静かな子でした。お父さんお母さんはいつも非常に忙しく旅館の経営に忙殺される日常でした。Pママは毎日学校から帰るとランドセルを玄関先に放り出して祖父母の家に行きました。近所の子たちと暗くなるまで遊び、夕ご飯も祖父母の家で頂きました。兄と姉も家には寄らずに学校から直接、祖父母の家に来て夕飯を食べました。勉強も、片付いた食卓で兄か姉に教えてもらったそうです。いつも気が付くと朝になっていて、そこが祖父母の家ではなく自分の家であることがとても不思議に感じられたそうです。すでにお父さんは仕事先である旅館に出かけ(あるいは家には帰らなかったのか?)、お母さんはあわただしく朝食の用意をして、それが済むとすぐに洗い物をし、汚れた衣服を洗濯して室内干しにすると、子ども達3人を車に乗せて学校に送り、その足で自分も旅館に駆けつける毎日でした。土曜も日曜もなかったそうです。こういう子ども時代を思い出して、Pママは「幸せな毎日だった」と言うのです。

=行けなかったバレー教室=

毎回毎回、Pママの幼少期から学生時代までの生い立ちを語って頂くカウンセリングが続きました。ある時、習い事の話になった時に「バレーを習いたかったけど私にはそれが出来なかった」と言う話になりました。Pママの四つ上のお姉さんはバレーを習っていたそうです。小学校を卒業し数駅先の中学校に進むときにバレー教室を止めることになり、Pママは何となく姉の次に今度は自分がバレー教室に通うものだとばかり思っていたそうです。姉の最後の発表会を母親と見に行ったときに、Pママは姉のバレーシューズや衣装をもらってワクワクしたそうです。ところが、バレー教室に自分が通う事にはならず、春も過ぎて行きました。「私もバレー教室にいきたい」という事をPママはとうとう誰にも言えないままでした。このことを思い出した時にPママは涙を流しましたが、「こういう悲しいことはあったけれど、貧しい中、大学まで行かせてくれた両親には感謝の気持ちしかない」と繰り返し言っていました。

=溢れだした悲しい思い出=

しかし、この思い出を語ってからと言うもの、次から次へと悲しい思い出がよみがえって来ました。お母さんが授業参観に一度も来てくれなかったこと、欲しかった洋服があったのにそれを言いだせなかったこと、兄と姉には与えられた部屋が自分には与えられなかったこと、何でも姉のお古を使わなければならなかったこと、等々が堰を切ったように溢れだしたのです。

=なぜ胸が締め付けられたのか?=

おまけに、T君が不登校になりそれを母親に相談したPママに、母親が「なんでそんなことになったのかしらね。うちではどの子もみんな扱いやすい楽な子ばかりだったのに。特にあなたなんか本当に手のかからない子だった」と呟いたそうです。この時、Pママは何かしら苦しくなって胸が締め付けられるような思いをしたことを思い出しました。でも、それが何なのか、なぜなのか、考えることもなくT君を連れて家に帰って来たそうです。

Pママは「心の中遊ぶ平和主義者」?!=

さて、皆さんには、不登校になったT君の前に、お母さんのPママの「性格タイプ」を考えて頂きましょう。このブログを読んできた方ならPママが、「心の中で遊ぶ平和主義者」 だとすぐに感づいた方もいらっしゃったかもしれません。Pママは、何でも我慢してきてしまったのです。この性格タイプは、少しでも平和を乱しそうなことは決して要求しようとしません。誰かと衝突するくらいなら譲歩することを選びます。いえ、平和を乱すとか、衝突するとか、そんなことになる以前に、「お母さんはきっと忙しいに違いない」、「お母さんは今はお金がないんだ」「何か言ってお母さんを困らせたくない」、「私が黙っていればこの家は平和だ」、といつもこんな風に考えて我慢を通してきてしまったのがPママの生い立ちでした。

=子どもはどのように「機能不全家庭」を生き抜くか?=

そこで、どうして親であるPママの性格がT君の不登校と関係があるのでしょうか?それを考える前に、今度はT君の性格タイプを考えてみる必要があります。このブログ、「機能不全家庭」を扱った五回シリーズの中で、子ども達が「どのような役回りを演じるのか」を解説しました。「ヒーロー(ヒロイン)」「リトルナース(幼き看護者)」「ピエロ(道化師)」「ロストワン(迷子)」「プリンセス プリンセス(命なき人形)」「スケープゴート(生贄の羊)」と六つの役回りを説明しました。

T君はどの役回りを演じたか?=

ここまでの説明だけで、T君が「スケープゴート(生贄の羊)」の役回りを演じているのではないかと思った方は、とても鋭いと思います。スケープゴートは家庭の中で問題があらわになる前に、自ら問題を起こして自分が犠牲になり、家庭の問題を見えなくする役回りでした。それではT君の、つまりPママの家庭の問題とは何だったのでしょうか?

T君の兄が模範生だったこと=

それは、T君の三歳上の兄が「ヒーロー」だったことと深く関係しています。母親のPママは、忍耐強く不平不満を言わずにいつも懸命に頑張るT君の兄を愛しました。T君のお兄さんは優等生であり模範生でした。弟のT君は、無意識に「母親が兄を愛し弟を顧みないという家庭の問題」が明らかにならないように、次々と問題を起こしてきたと言って良いでしょう。

=意識的には母親の関心を自分に引き付けようとした=

意識の上では、母親が自分を愛さないという事態が決定的にならないように、母親の注意関心を自分に引き付けようとしたと言って良いでしょう。つまり、「無視されるくらいなら、殴られる(叱られる)ことを選んできた」のです。T君の問題児ぶりは実は幼稚園時代から明らかでした。小学校に進んで体力がついてから、相手の子に怪我をさせるような事態になったのです。

=いまだ癒されぬ傷=

さて、Pママのカウンセリングに戻りましょう。ある日、Pママに「気づき」が訪れました。「あなたは手のかからない楽な子どもだった」と母親から言われてPママの胸に湧き上がったのは「怒り」でした。しかし、Pママがその怒りを怒りとして認識するまでにさらにひと月近くがかかりました。自分は恵まれた子どもだった、愛された子供だった、両親は強く深い愛情を自分に注いでくれた、そういう思いがPママの「心の影」を見えなくしていたのです。Pママの両親の愛情は、もちろん、疑うことが出来ない真実です。しかしながら、幼いPママが深く傷付いたこともまた真実でした。Pママの「こころの影」に隠されていたものは「いまだ癒されぬ傷」でした。

=私はTが嫌いだった=

Pママがその傷に気が付いてから更に四回ほどのカウンセリングを経て、Pママはまた愕然としました。「私はTが嫌いだった」という事実に突然、打ちのめされたのです。兄と違って、そして子供時代の自分と違って、何でも訴えてくるT君が大嫌いだったことにPママはようやく気が付くことが出来ました。兄に注いだ愛情に比べて弟のT君に注いだ愛情はなんと形ばかりのものだったことでしょう。何か買って、何かやってと言われるたびに自分の心に射した影は「まるで憎しみのようだった」とPママは気が付くことが出来ました。そして、こころから思ったのです、「Tが要求していたものは私が昔欲しかったものばかりだった」と。

=兄弟がふたりとも不登校になっていたかもしれない!=

こうしてPママのT君に対する接し方は劇的に変わることになりました。その変化がT君の心に沁みわたって、彼は瞬く間に元気を取り戻していきました。さらに、Pママは、T君の兄に対する自分の愛情がゆがんでいた事にも気が付きました。要するに、エゴに満ちた愛情がT君のお兄さんに「ヒーロー」であることを要求してきたことに気が付いたのです。実は、T君の兄もPママの重圧の下、参ってしまう寸前だったのです。

T君の不登校がもたらしたもの=

いま二人の子どもの信頼に満ちたまなざしの中で、Pママはしみじみと思います。自分はなんと浅い人生を生きてきたことだろう。何か問題がありそうな事態になると、いつも「見ざる、聞かざる、言わざる、感じません、考えません」と、当事者になることからまるで逃げてきてしまった。そのためにもっともっと深く味わうべき喜怒哀楽を失ってきたのだと。子どもが出来てから、特に二人目のT君が物心ついた頃から、なぜ自分が「しんどかった」のか、今では良く分かるとPママは語ります。T君が母親である自分の「生い立ちの痛み」を語りかけてきたからだとPママは言います。もし、Tが自分のもとに来なかったら自分は何と不毛な人生を生き続けたことだろう、と語るPママはいま本当に幸せそうです。

以上

コメント

  1. 吉田智恵子

    どこかのタイミングで、自分で気づけないことに気づくことが必要なんですね。子どもの問題行動は、何かしらのメッセージだということは今ではわかるのですが、こじれてしまった関係を改善する方法はまだわかりません。一緒に暮らしている間に変化が訪れたことは、本当に幸せなことだと思います。良かったですね!

    1. kagayake 投稿作成者

      こじれてしまった関係を改善する方法があるのかどうか・・・・・・・・。
      気付きがあって愛情が自然によみがえったのかもしれませんね。
      それで一挙に親子関係が変わったように、私には見えました。

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