MM様からの相談:「中3の娘の事で相談させてください」

はじめまして。中3女子の母、MMと申します。娘の事で悩んでおります。

毎日(土日も)活動のある盛んな部活に入っており、また高校受験を控え行きたい学校があるため塾にも通っており、毎日とても忙しく過ごしています。

本当によく頑張っていると親でも感心するのですが、精神的にいっぱいいっぱいのようで、ちょっとしたことでもすぐけんか腰になります。単にけんか腰ならまあいいのですが、どうも「自分は大事にされていない」という気持ちが非常に強いようで対応に困っています。

不登校というわけではないので、こちらのサイトには不適切なのかもしれませんが、毎日本当に対応に困っているので、どのように対応したらいいのか、アドバイスを頂けませんでしょうか?

ちなみに家族構成は父母弟(3つ違い)の4人家族です。

1.「自分は大事にされていない。どうせ自分のことは嫌いなんでしょ!」と言う

友人にlineをやろうと誘われており、現在は普通の携帯なのですが、スマホにして欲しいと言っています。

主人が「スマホは必要ないし、lineをするのは危険なこともあるし、時間も取られるので今の時点では買わない」と言ったのですが、友達関係でどうしても必要だと言うので、「スマホではなく家でのみラインができる環境を作る」と譲歩したのですが、「絶対スマホでないと嫌だ、友達はみんな買ってもらっている、自分が仲間外れにされてもいいの?」等々納得しません。

買ってやることは可能です。でもそれが本当に彼女にとっていいことなのか疑問です。友達関係もかえって難しくなる可能性もあります。そこで使用を限定的にできる折衷(セッチュウ)案を出したのですが、納得しません。  更にはねつけることもできますが、そうすると「自分は愛されていない。もう嫌だ。死にたい」と言うのです。自分が大事にされている、と思ってほしいですが、でもそこで物を買うことで精神的に満たされるのでしょうか?かえってマイナスのようにも思います。

2.「親なんだから当たり前。自分が欲しくて産んだ子でしょ。自分は産んでなんて頼んでない」と言う。

何か買ってほしいとき、やって欲しいとき、お願い、というのではなく上記のような主張をします。どうも下手(シタテ)に出ると負けだ、と思っているようなのです。強く言うことで自分を守ろうとしているのだと思います。それは分かるのですが、そのままの考えで行くのはとても心配です。友達にはとても気を使っていて、どうやらそう言った威張った話し方はしていないようで、特別なトラブルはないようです。その分家で発散させているのだと思い、多少威張った言動をするのは大目に見ているのですが、親切にしてあげたことでもちょっと自分の思い通りにならないと怒る(例えばマッサージをしてあげるのですが、時間が短いと怒ります。)のには困ります。「親切にしたのに怒られるのは嫌だよ。それじゃあ親切にしたくなくなるよ」と伝えるのですが、それは伝わらないようです。

3.「あんたと違ってヒマじゃないんだからやらなきゃいけないの!」と言う。  

本当によく頑張っていると思うのですが、気持ちが焦り時間配分が上手くいかずにエネルギーが足りなくなっていると思います。「勉強しなさい」はほとんど言ったことがありません。精一杯部活をやって、後は高校は入れるところでいいと私は本当に思っています。でも娘は志望校があり、それを目指そうというのはいいのですが、実際の行動としては部活又は塾の後、息抜き(YouTubeやマンガなど)の時間を先に取るので、勉強開始時刻が遅くなり効率も上がらないようです。夜寝るのも遅くなり学校でも眠くなるという悪循環です。息抜きの時間も必要だと思うので、それに対して小言は言っていませんが、「早く寝た方がいいよ」という声がけはしています。すると上記のような言葉が返ってくるのです。

強く言い返すことは可能ですし、実際何度もそうしたことがありますが、それは解決に結びつかないようだということも学びました。でも単に優しくすればいいという問題でもないように思います。 どうかアドバイスをよろしくお願いします。

相談者(追加説明)

改めてサイトのマナーを読んで情報が足りないかも、と思い追加です。

痩せてしまった小学校高学年

これまでの経緯は、小4位の時「めんどくさい」と言って非常に無気力な時がありました(学校には普通に行き、友達とも普通に遊んでいましたが)。そして小5、6の時に「家が狭い、犬が飼えない、運動神経が悪い、視力が悪い、、、」など色々なことに不満を言っていました。また体重を非常に気にして食べることは大好きなのに自分で食事制限をし、かなり痩せてしまい心配しました(一時期は158cm、38kgでした)。

なんとか第一志望に合格できそう!

中学に入り、部活に打ち込むようになってからは、変えられないことへ不満を言うことはほとんどなくなり、また食事も普通に取り、体重も普通になりました。中学3年になり、受験のために塾に通い出してから(本人の希望です)時間的余裕がなくなり、ストレスがたまっているのだと思いますが、先の投稿のような発言が多くなりました。親としては塾をやめても全く構わないと思い、実際「無理して塾に行かなくても行ける高校に行くのもありだよ」と伝えているのですが、それは嫌、と言います。成績的には今の成績を維持すれば希望校になんとか入れそうです。

この子なら大丈夫とは思えない

信頼関係については、どうでしょうか。娘は私を信頼している、というより依存している感じです。主人のことを中学生になったころから敬遠するようになり、何かあると私を通して話そうとします。出来る限り直接話すように促しますが、場合によっては私が取り次ぐ時もあります。私が娘を信頼しているかと言うと、根は真面目でいじわるな所のない良い子だと思っています。ただ、とても弱い部分があり、この子なら大丈夫、という信頼の仕方は出来ていないです。心配です。

怒っていない時は、おもしろくて可愛く、素直な子です。 ただ整理整頓は苦手です。

このような形で条件を満たしましたでしょうか。 お忙しい中恐縮ですが、お時間のあるときにアドバイス頂けましたら助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。

 

回答者 大門隆:「とても良いお嬢さんで今のところ問題ないのではないでしょうか」

固定的に考えると間違いの元

個人差もありますが、小学校高学年から中学生にかけての女子は「思春期前期」に当たり、とても難しい時期です。 この春期前期に当たって親がもっとも注意しなければいけないことは、現在、子供が持っている欠点や弱点を一生続くものとして固定的に考えては間違いになると言うことです。 身体的な変化が大変に大きなものである以上に、「自我意識」が著しく発達し、漠然とした不安や自分にとって違和感のある衝動を感じる時期でもあり、非常に不安定になるのが普通です。 また、愛情とか友情とかそれまでなんの疑いもなく信じてきたものに対して、実在感を感じられなくなったり、頼りなく不確かで不安を感じたりしやすくなる時期でもあります。

揺らぐ自己肯定感

さらに、自分というものに対して、それまでは漠然とした肯定感を持ってやって来たのに、親から見るとごく些細なことから自己否定感を持ち、安定して自己肯定感を保持していくことが難しくなります。 自分自身に対してと同じように、他者の目や評価に敏感になるばかりでなく、親や先生そして友達に対しても不信感や否定感を抱きやすいとも言えます。 また同時に、自分が友達から否定され疎外されるのではないかという怖れを抱くようにもなります。

こころのバランスを崩しやすい過渡期

早いお子さんですと既に中学時代から、「自分とは何者か」とか「自分らしさとは何か」といういわゆる「自我同一性の獲得」が、全容を見ることが出来ない巨大な「壁」として立ち塞がっているように感じられる年頃でもあります。 つまり、精神的な成長が激しく加速したり、逆に急ブレーキがかかったり、心と体のバランスのみならず心の中の「内的なバランス」も崩しやすい傾向が強まる時期なのです。 つまり、「過渡期」なのです。

こうして考えてくると、MM様がお感じになる心配も、お嬢様が「過渡期」にいることの変化の過程として考えれば、それほど大きな問題とは言えないのではないでしょうか。

>本当によく頑張っていると親でも感心するのですが、精神的にいっぱいいっぱいのようで

これについて、親として「部活を止めろ」「学校を休め」「志望校レベルを下げろ」と言えるでしょうか?言えないと思いますし、たとえ言ったとしてもご本人が従わないのは明白ですから、共感を持って見守るという以外にないのではないでしょうか。

>1.「自分は愛されていない。もう嫌だ。死にたい」と言うのです。

自分が大事にされている、と思ってほしいですが、でもそこで物を買うことで精神的に満たされるのでしょうか?かえってマイナスのようにも思います。 冒頭で親の愛情など今まで信じられてきたものについても実在感を失ったり疑ったりしがちだと書きましたが、お嬢様の場合、本当にご両親の愛情を疑っているでしょうか? 私にはどうもそのようには思えません。 自分の要求を通すための方便ではないでしょうか。

ここで「ライン」の問題に触れておきます。

私のところに通って来る子供達からも耳にしますが、女子の間では既にほとんど必須のアイテムになっている感がありますね。 ただ、「群れ」を作りたがる女子の間で強力な「統制力」としても働いていて、イジメの武器にもなり得ますし、非常に有害な側面があると私も危機的に感じています。 その統制力を嫌がって、親に禁止されていないにもかかわらず、「スマホもラインも親に禁止されているから」という理由を表看板にして、持とうとしない子供がいます。友達には「メールで一対一でやりたい」と言っているそうで、それなりの支持はあるそうですよ。

子どもに悩み苦しんで欲しい?!

ただ、MM様の場合、お嬢様が欲しいと言っているのですから、親として考えなくてはなりませんね。 買い与えれば、また「ライン」で時間を取られるでしょうしね。 しかも、買い与えても、精神的に満たされるかと言えば、もちろん、そんなことはないでしょうし・・・・・・・。 でも、私なら、娘が欲しがれば結局は負けて買って上げてしまうでしょうね。 なぜかというと、もし娘が欲しいと思うなら、ラインの使い方について、すなわち友達との付き合い方について娘に悩み苦しんで欲しいと思うからです。

>2.「親なんだから当たり前。自分が欲しくて産んだ子でしょ。自分は産んでなんて頼んでない」と言う。

これも、ずいぶんと酷い言いぐさですが、自分の要求を通すための単なる方便ではないでしょうか。

>それは分かるのですが、そのままの考えで行くのはとても心配です。

そのままの考えでは行かないでしょうね、今は「過渡期」ですから。

>3.「あんたと違ってヒマじゃないんだからやらなきゃいけないの!」と言う。

ほんとに憎たらしいほど甘えていますね(笑)。

満点に近いMM様の対応?!

以下、弟への強烈なライバル意識、客観的に判断が出来ないところ、百かゼロかの完璧主義、他人(特に母親である私)に判断してもらいたがり他人のせいにする傾向などなど、「過渡期」故の問題であり、今のところ何か本質的な問題に突き当たって苦しんでいるとは言えないと思いますよ。 お母様の対応もおおむね良くできている、というより、ある意味ではほとんど満点に近いのではないでしょうか。

問題はそれでも起こり得る!

MM様、 とは言え、必ずしも「だから何も問題はないですよ」と申し上げているのではありません。 むしろ、私が申し上げたいのは、「問題はそれでも起こり得る」ということです。 親がどんなに愛情を注ぎ、どんなに立派な親であろうとしても、冒頭で書いたような思春期の問題が現実の精神的な危機となって、病気や障害にさえ発展し、子供に苦痛を与え、従って親に苦悩を与えるような事態が本当にあり得ます。

現代日本で子どもが大人になることの難しさ

こういう仕事を長いこと続けてきて私が感じるのは、この現代日本という時代に子どもが「大人」になることの難しさです。 子どもは「過渡期」の中でさんざんに迷い、自分を見つめることが出来ず、従って自分に取り組むこともままならぬ儘(ママ)に、友達からハブられ、そして虐められ人間不信に陥り、友達や先生はおろか親ともコミュニケーションが取れず、不登校や社会的な不適応を起こします。 結局は、「自分とは何者か」とか「自分らしさとは何か」といういわゆる「自我同一性の獲得」が出来ないままに、歳だけは取っていく、その最悪の結果がニートであり、引きこもりです。

ニートや引きこもりを未然に防ぐ子育てはない!?

さて、こういう負の可能性はどの子にも常にあるとして、私たち親はどのようにその可能性を未然に防ぐことが出来るでしょうか。

恐らくその答えは具体策の中には「ない」と言うことなのです。

輝け元気!に見える「親」を見ていると、子を思う親の気持ちとして「間違った親」というのは一人も居ません。 でも、その親が願っているのは、「家族の幸せ」「家庭の幸せ」「子供の幸せ」そして、それが「自分の幸せ」だと言うことではないでしょうか。 MM様もそうでしょうか? それともMM様は違いますか?

苦しみに遭い痛みに会うことは必要!?

私たち親は、我が子が苦しみに遭い痛みに会うことを怖れ、出来るだけそうならないように我が子を守っていますね。 しかし、子どもが大人になるためには「苦しみに遭い痛みに会うこと」は必要なことです。 ところが私たち大人は、子どもがその苦しみや痛みを乗り越えていくだけの「力」を親として子どもに与えることが出来ているでしょうか? 逆に言えば、その「力」を与えることが出来ないので、我が子がそのような苦しみに遭い痛みに会うことから必死に守ろうとしてしまうのかも知れません。

子どもが大人になるのが早かった時代

たかだか一世代前、7~80年前に親として生きた人は、子どもに「天皇陛下のために死ねる人間になれ」と教え、実際に「死んでこい」と戦場に送り出したのです。 とんでもないことですが、実際に多くの若者が死んでいきました。 ただ、天皇陛下のために死んだ人よりも、親や妻や恋人や幼い我が子を思い死んだ人が多かったのではないでしょうか。 この時代の若者は大人になるのが早かったと私は信じています。 早かったし、同時にたいへんに多くの苦しみに遭い痛みに会ったに違いないと思っています。

自分の命よりも大切なものがある!?

政治的な話ではないので誤解しないで読んでいただきたいのですが、当時の親は我が子に「自分の命よりも大切なものがある」と教えたのです。 それが天皇陛下だというならそれはきっと間違った話かもしれませんが、それが親や妻や恋人や我が子だと言うなら、それは正しい教えなのではないでしょうか。 自分が愛する「人」だけではなく、その人その人それぞれに大切な思いや信念(価値観)や信仰があって、それを守るために命を捨てるということには、誰しも多少とも共感できるのではないでしょうか。 この意味で、私は生きると言うことの中には「自分の命よりも大切なものがある」と思っています。ある意味で、生きるという事は、その「大切なもの」の為に「犠牲」になるという事ではないでしょうか。

痛みや苦しみの中でしか見つからない?!

ひるがえってこの時代を見直すとき、私たち親は我が子に、生きると言うことの中に「何か」自分の命よりも大切なものがある、それを探しなさい、と言えているでしょうか。 そして、それを見つけるために痛みに遭いなさい、苦しみに出会いなさいと言えているでしょうか。 自分の命よりも大切な何かというのは、痛みや苦しみの中でしか見つからないのではないでしょうか。

これを我が子に向かって言うことはたいへんなことです。 「親としての」と言う以前に「人間としての」生き方を問われてしまいますからね。

子どもの目は鋭い

痛みと苦しみに満ちた混迷を抜け出して学校に帰っていく子ども達は、不思議と「誰かのために」とか「何かのために」ということをよく言います。過渡期の子どもの目は鋭いです。

MM様、手始めに、「あなたは私の命よりも大切だ」と伝えることから始めてみては如何でしょうか。

以上

  • カテゴリー: ご相談 |
  • 投稿日: 2017年03月5日 |

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