心理的な不登校
今回は、A群からF群までの不登校のうち、B群C群の不登校について考えます。この不登校が数としてはいちばん多いかもしれません。
※不登校マップ http://kagayake.org/blog/?p=81 を併せてご覧ください。
=人間の心の不思議さ、切なさ=
B群C群の不登校は、病気でもないし障害でもない不登校で最も数は多いかも知れません。分かっていなくてはいけないのが、人間の心の不思議さ、切なさです。
例えば、こういう例を考えてみて下さい。熱烈な恋愛の末、結納も済み、結婚式の日取りも決まった女性がいたとします。ところが、その婚約者がなんと交通事故で亡くなってしまいました。女性は、心に大変に大きな打撃を受け、その日から茫然自失となりました。
=手足が動かない=
その知らせの翌日にはベッドから下りることが出来なくなりました。どう頑張っても、手足が動かず、歩くことはもちろん立ち上がることさえ出来なくなってしまったのです。心に受けた打撃が「手足が動かない」という症状に転換されたと考えることが出来ます。これを「転換性障害」と言います。
=一種の救い=
転換性障害には、その女性を助ける面もあるのです。それは、「手足が動かないのだから」お通夜にも、お葬式にも、初七日にも、行くことは出来ない。つまり、行かなくて済む、という事です。彼女にはこういう悲しい「別れ」に立ち会わなくて済むという一種の「救い」が生じたことになります。
この「救い」のことを「疾病利得(シッペイリトク)」と言います。さらに、初七日も終わった頃、その女性が急に歩けるようになって、「結婚式で使う髪飾りを買いにデパートに行って来ます」と母親に告げたとしましょう。母親は驚いて思わず「〇〇さんは亡くなってしまったのよ」と言います。
=冗談もいい加減にしてよ、お母さん=
ところが女性は「冗談もいい加減にしてよ、お母さん」と言って出かけて行きました。婚約者が亡くなった事を心の奥底に押し込んで否認、つまり無かった事にしてしまったのです。これを「解離性障害」と言います。この場合は「婚約者が事故で亡くなった」という誰にも明らかな原因があります。
=原因が分からないままに起こることも!=
「転換性障害」も「解離性障害」も、親はもちろん本人にさえ「原因」が分からないままに起こることがあります。朝、目が覚めない、無理に起き上がると目眩がする、起きていようとすると酷い頭痛がするなどして、病院へ行くと「起立性調節障害」などと診断され、不登校になります。これがB群の「心理的な原因で起こる病気による不登校」です。
=「私は学校には行けない」という心の叫び=
要するに自律神経の失調で起こる病気ですが、そのために「朝起きられない」という症状が起こります。これには「学校に行かなくて良い」という救い、つまり「疾病利得」を伴います。原因がわからない転換性障害、これを「身体表現性障害」と呼びます。「私は学校には行けない」という心の叫びなのです。
=二重三重に重なったストレス=
この病気には「薬が効かない」という特徴があります。頭が痛いからと頭痛薬が出ても、ほとんど効きません。カウンセリングで固く閉ざされた心を紐解いていくと二重三重に重なったストレスが見えてきます。学校、クラス、部活動、塾、それに家庭でのストレスが重なっている場合などです。
=痛みと悲しみに苦しむ姿こそが正常=
これらのストレスを紐解いて本人がひとつひとつ納得していくと次第に症状は和らいでいきます。婚約者を亡くした女性の話に戻りますと、茫然自失で体が動かなくなるというのは、「こころ」が正常に働かない、つまり障害された姿です。本来は耐えがたい痛みと悲しみに苦しむ姿こそが正常なのです。
この女性が転換性障害を起こさず、婚約者を亡くした痛みと悲しみに苦しんでいるとしましょう。その痛みと苦しみの為に学校や職場に行けなくなったとしましょう。それが、C群の「心理的な不登校」です。
=「こころ」を休ませる=
B群の起立性調節障害等の身体表現性障害で起こる不登校の場合は登校させずに、まずはゆっくりと休ませる必要があります。それと同じで、C群の不登校の場合にも登校させずに「こころ」を休ませてあげなくてはいけません。
=分からないからこそ「こころ」が悲鳴を上げる=
C群の不登校は、その原因に幾重にも重なったストレスがあって「こころ」が正常に働かなくなってしまったと見ると、正しい対処の仕方が見えて来ます。心しなくてはいけないのは子どもの場合、何がストレスになっているのか自覚できない場合がほとんどだという事です。小学生だけでなく中高生でも、場合によっては大学生になっても何が精神的な打撃になったのか、何が過重なストレスになっているのか、分からないのがむしろ普通です。逆に言うと、分からないからこそ「こころ」が悲鳴を上げて「不登校」が起きたのだと考えねばなりません。
私の言い方では、「命の泉」が涸れ果ててしまった状態です。ほんらい湧き出ていなくてはいけないはずの「元気」と「喜び」がまったく出てこないのです。
=良くなったり悪くなったりを繰り返す=
難しいのは、自分が曝されたストレスが自覚できればすぐに自律神経の失調が治る、また精神的な打撃が癒されると言うものではないことです。ストレス源が明らかになっていく度に悪くなったり良くなったりを繰り返しながら段々と治っていきます。くだんの女性が喪失体験を克服していく時に、何度も大きな悲しみに直面しなければならないのと同じなのです。
以上
- カテゴリー: 不登校 |
- 投稿日: 2016年08月2日 |
私は現在はもう大人で、二児の母ですが、
中学生と高校生だったとき、不登校でした。
最初の頃は、母がしつこく学校に行くように言ってきたけど、
そのうち何にも言わなくなったし、
学校には行かなくても、バレエには行ってたし、
勉強は、家庭教師や独学でよくできたので、
自分も含めて、まわりもあんまり深刻には取り扱ってなかったような
気がします。
それに一番大きかったのは、兄弟が五人もいて、
他にも色々問題を抱えていた母が、
私ひとりのことにそんなに構っていられず、放置してたのがありのままでしょう。
でも、そのときの自分の心のことを思い出すと、
けっこう苦しかったと思います。
今思えば、鬱状態だったような。
それからも、猛烈に頑張る時期と、何にもできなくなるほどの鬱を繰返し
鬱の時は、何にもできない自分にたいしての、強烈な無価値感、
父親から繰り返された人格否定の言葉の数々が、
自分の言葉として自分を攻め続けて、
苦しくて苦しくて自殺したいと考えたことも何度もありました。
そこまでの強烈な浮き沈みがなくなったのは、
結婚して、自分の家庭を持ってからです。
自分の居場所ができたことが大きいと思います。
でも、今でも鬱がないわけではありません。
だけど、子供たちの存在が愛しくて、
自分の存在や自分の人生を、
子供たちのおかげで肯定できている気がします。
自分の存在と自分の人生を否定することは、
子供たちの存在を否定することになるから。
子供たちには、私の苦しみを味あわせたくなくて、
中学三年生の姉も、小学四年生の妹も、
幼稚園時代から現在まで、ほとんど皆勤賞です。
そのほうが、楽だとおもうから。
長々すみません。
現在不登校に苦しむ人やご家族、それを支える方々に
何かの参考になればとコメントいたしました。
不登校は「放置」がいちばんマズイ対応です。それが、さらに心を傷つけますからね。「見守る」と言う言葉も良く聞きますが、多くが放置と同じことになりがちです。
不登校はひとりひとり違いますから、我が子を一人不登校から脱出させただけのママトモの話は、真に受けない方が良いです。この辺でしっかりしないと親が「加害者」になってしまう場合さえあります。
不登校の原因を特定できるところ、もしくは、それが特定できる親の接し方を指導してくれるところの門を叩いた方が良いです。
>父親から繰り返された人格否定の言葉の数々が、自分の言葉として自分を攻め続けて、苦しくて苦しくて自殺したいと考えたことも何度もありました。
みゃんみゃんさんはラッキーでした。
投稿、有り難うございました。
鬱を静かに受け止めて生きていきたいですね。
いつも心から声援をお送りしています。
ありがとうございます。
ひきこもっていた学生時代、がむしゃらになって働いてた20代。
燃え尽きて、生きていることが苦しくて、
死んでしまいたいほど自分の居場所がないことがつらくて、
ほとんど運試しのような自殺行為を繰り返して、痩せ細り、
向精神薬の大量摂取で死にかけたことも。
でも、そのときに命がけてある意味人生をリセットしたのです。
親が評価してくれる人生ではなく、
私が心から幸せを感じる人生を、
したいことをしてしたくないことをしないしない人生を
本気で生きるために全部捨ててもがき苦しみました。
そして結婚して、子供を溺愛する夫と、
今まで親や恋愛相手に感じた感情なんて、
みーんな薄っぺらでニセモノに思えるほどの
我が子に対する愛情を経験して。
今は、子どもはみんな、それぞれギフトをもって生まれてくる。
そのギフトを活かす人生をこどもたちが自分の足で歩いていけるように、
わが子も、ほかのこどもたちも応援していきたいと思います。
我が子に対するときに心すること、
悩む友達の話をきいてておもうことは、
親は自分自身の問題と、子供が直面している問題とを
きちんと区別することが大切だということです。
そのためには、自分ときちんと向き合うことが避けてとおれないと。
私が自分の両親に対して今でも叫びたいほど激しく感じる怒りは、
自分自身の問題から逃げ続けて、それをこどもに転嫁してすりかえるなと!
自分自身ときちんと向き合え!と。
実在する両親がこれをすることは恐らく死ぬまでないと思います。
だから、私は、自分の人生をかけて、
学びたいとおもいます。
自分の人生に起きる出来事が、私に何を教えようとしているのか。
楽しみながら、逃げないで進んでいきたいと思います。
またまた、長文になってしまいました。スミマセン。