とても良いお嬢さんで今のところ問題ないのではないでしょうか。
個人差もありますが、小学校高学年から中学生にかけての女子は思春期前期に当たり、とても難しい時期です。
この春期前期に当たって親がもっとも注意しなければいけないことは、現在、子供が持っている欠点や弱点を一生続くものとして固定的に考えては間違いになると言うことです。
身体的な変化が大変に大きなものである以上に、「自我意識」が著しく発達し、漠然とした不安や自分にとって違和感のある衝動を感じる時期でもあり、非常に不安定になるのが普通です。
また、愛情とか友情とかそれまでなんの疑いもなく信じてきたものに対して、実在感を感じられなくなったり、頼りなく不確かで不安を感じたりしやすくなる時期でもあります。
さらに、自分というものに対して、それまでは漠然とした肯定感を持ってやって来たのに、親から見るとごく些細なことから自己否定感を持ち、安定して自己肯定感を保持していくことが難しくなります。
自分自身に対してと同じように、他者の目や評価に敏感になるばかりでなく、親や先生そして友達に対しても不信感や否定感を抱きやすいとも言えます。
また同時に、自分が友達から否定され疎外されるのではないかという怖れを抱くようにもなります。
早いお子さんですと既に中学時代から、「自分とは何者か」とか「自分らしさとは何か」といういわゆる「自我同一性の獲得」が、全容を見ることが出来ない巨大な「壁」として立ち塞がっているように感じられる年頃でもあります。
つまり、精神的な成長が激しく加速したり、逆に急ブレーキがかかったり、心と体のバランスのみならず心の中の「内的なバランス」も崩しやすい傾向が強まる時期なのです。
つまり、「過渡期」なのです。
こうして考えてくると、MM様がお感じになる心配も、お嬢様が「過渡期」にいることの変化の過程として考えれば、それほど大きな問題とは言えないのではないでしょうか。
>本当によく頑張っていると親でも感心するのですが、精神的にいっぱいいっぱいのようで
これについて、親として「部活を止めろ」「学校を休め」「志望校レベルを下げろ」と言えるでしょうか?言えないと思いますし、たとえ言ったとしてもご本人が従わないのは明白ですから、共感を持って見守るという以外にないのではないでしょうか。
>1.「自分は愛されていない。もう嫌だ。死にたい」と言うのです。自分が大事にされている、と思ってほしいですが、でもそこで物を買うことで精神的に満たされるのでしょうか?かえってマイナスのようにも思います。
冒頭で親の愛情など今まで信じられてきたものについても実在感を失ったり疑ったりしがちだと書きましたが、お嬢様の場合、本当にご両親の愛情を疑っているでしょうか?
私にはどうもそのようには思えません。
自分の要求を通すための方便ではないでしょうか。
ここで「ライン」の問題に触れておきます。
私のところに通って来る子供達からも耳にしますが、女子の間では既にほとんど必須のアイテムになっている感がありますね。
ただ、「群れ」を作りたがる女子の間で強力な「統制力」としても働いていて、イジメの武器にもなり得ますし、非常に有害な側面があると私も危機的に感じています。
その統制力を嫌がって、親に禁止されていないにもかかわらず、「スマホもラインも親に禁止されているから」という理由を表看板にして、持とうとしない子供がいます。友達には「メールで一対一でやりたい」と言っているそうで、それなりの支持はあるそうですよ。
ただ、MM様の場合、お嬢様が欲しいと言っているのですから、親として考えなくてはなりませんね。
買い与えれば、また「ライン」で時間を取られるでしょうしね。
しかも、買い与えても、精神的に満たされるかと言えば、もちろん、そんなことはないでしょうし・・・・・・・。
でも、私なら、娘が欲しがれば結局は負けて買って上げてしまうでしょうね。
なぜかというと、もし娘が欲しいと思うなら、ラインの使い方について、すなわち友達との付き合い方について娘に悩み苦しんで欲しいと思うからです。
>2.「親なんだから当たり前。自分が欲しくて産んだ子でしょ。自分は産んでなんて頼んでない」と言う。
これも、ずいぶんと酷い言いぐさですが、自分の要求を通すための単なる方便ではないでしょうか。
>それは分かるのですが、そのままの考えで行くのはとても心配です。
そのままの考えでは行かないでしょうね、今は「過渡期」ですから。
>3.「あんたと違ってヒマじゃないんだからやらなきゃいけないの!」と言う。
ほんとに憎たらしいほど甘えていますね(笑)。
以下、弟への強烈なライバル意識、客観的に判断が出来ないところ、百かゼロかの完璧主義、他人(特に母親である私)に判断してもらいたがり他人のせいにする傾向などなど、「過渡期」故の問題であり、今のところ何か本質的な問題に突き当たって苦しんでいるとは言えないと思いますよ。
お母様の対応もおおむね良くできている、というより、ある意味ではほとんど満点に近いのではないでしょうか。
MM様、
とは言え、必ずしも「だから何も問題はないですよ」と申し上げているのではありません。
むしろ、私が申し上げたいのは、「問題はそれでも起こり得る」ということです。
親がどんなに愛情を注ぎ、どんなに立派な親であろうとしても、冒頭で書いたような思春期の問題が現実の精神的な危機となって、病気や障害にさえ発展し、子供に苦痛を与え、従って親に苦悩を与えるような事態が本当にあり得ます。
こういう仕事を長いこと続けてきて私が感じるのは、この現代日本という時代に子供が「大人」になることの難しさです。
子供は「過渡期」の中でさんざんに迷い、自分を見つめることが出来ず、従って自分に取り組むこともままならぬ儘に、友達からハブられそして虐められ人間不信に陥り、友達や先生はおろか親ともコミュニケーションが取れず、不登校や社会的な不適応を起こします。
結局は、「自分とは何者か」とか「自分らしさとは何か」といういわゆる「自我同一性の獲得」が出来ないままに、歳だけは取っていく、その結果がニートであり、引きこもりです。
さて、こういう負の可能性はどの子にも常にあるとして、私たち親はどのようにその可能性を未然に防ぐことが出来るでしょうか。
恐らくその答えは具体策の中には「ない」と言うことなのです。
輝け元気!に見える「親」を見ていると、子を思う親の気持ちとして「間違った親」というのは一人も居ません。
でも、その親が願っているのは、「家族の幸せ」「家庭の幸せ」「子供の幸せ」そして、それが「自分の幸せ」だと言うことではないでしょうか。
MM様もそうでしょうか?
それともMM様は違いますか?
私たち親は、我が子が苦しみに遭い痛みに会うことを怖れ、出来るだけそうならないように我が子を守っていますね。
しかし、子供が大人になるためには「苦しみに遭い痛みに会うこと」は必要なことです。
ところが私たち大人は、子供がその苦しみや痛みを乗り越えていくだけの「力」を親として子供に与えることが出来ているでしょうか?
逆に言えば、その「力」を与えることが出来ないので、我が子がそのような苦しみに遭い痛みに会うことから必死に守ろうとしてしまうのかも知れません。
たかだか一世代前、7~80年前に親として生きた人は子供に「天皇陛下のために死ねる人間になれ」と教え、実際に「死んでこい」と戦争に送り出したのです。
とんでもないことですが、実際に多くの若者が死んでいきました。
ただ、天皇陛下のために死んだ人よりも、親や妻や恋人や幼い我が子の為に死んだ人が多かったのではないでしょうか。
この時代の若者は大人になるのが早かったと私は信じています。
早かったし、同時にたいへんに多くの苦しみに遭い痛みに会ったに違いないと思っています。
政治的な話ではないので誤解しないで読んでいただきたいのですが、当時の親は我が子に「自分の命よりも大切なものがある」と教えたのです。
それが天皇陛下だというならそれは間違った話だと思いますが、それが親や妻や恋人や我が子だと言うなら、それは正しい教えなのではないでしょうか。
自分が愛する「人」だけではなく、その人その人それぞれに大切な思いや信念(価値観)や信仰があって、それを守るために命を捨てるということには、誰しも多少とも共感できるのではないでしょうか。
この意味で、私は生きると言うことの中には「自分の命よりも大切なものがある」と思っています。
ひるがえってこの時代を見直すとき、私たち親は我が子に、生きると言うことの中に「何か」自分の命よりも大切なものがある、それを探しなさい、と言えているでしょうか。
そして、それを見つけるために痛みに遭いなさい、苦しみに出会いなさいと言えているでしょうか。
これを我が子に向かって言うことはたいへんなことです。
「親としての」と言う以前に「人間としての」生き方を問われてしまいますからね。
「過渡期」の子供の目は鋭いです。
痛みと苦しみに満ちた混迷を抜け出して学校に帰っていく子供達は、不思議と「誰かのために」とか「何かのために」ということをよく言います。
手始めに、「あなたは私の命よりも大切だ」と伝えることから始めてみては如何でしょうか。